あたりまえの、魔法 1

おはなし。短編。 ※あたりまえの、魔法2(エッセイなど)はこちら→http://junmusic2.hatenadiary.jp

巨人を見て思い出した、きらいだった社長と、ほんものの(アメリカの)ドリフターズにもらったサイン<Stay with you>

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今日は、ひろばで、ゲゲゲの鬼太郎祭の演奏をした。目玉おやじの顔をつけて。

一曲目を演奏し終わったら、あまりに酸欠で、苦しくてかぶりものをはずしてしまった。

ライブに関してはまた別に書こうと思う。

帰りに中華屋さんでめしを食べてたら日本シリーズをやっていて見てるまに巨人が優勝した。

 

急に、20代のころバイトしてたプログラマーの会社の、社長のことを思い出した。

なんでかというと、その人が、ものすごい巨人ファンだったからだ。

入ってそうそう、おまえはどこファンか?と聞くから、「ほとんど野球は知らないけど、ヤクルトかな、と思います。」と言うと、

「あんな、暗いチームのどこがいいんだよ!」となげすてるように言っていた。

そんな言い方するなら聞かなきゃいいのに、と思った。同時に、巨人が明るく見える人もいるんだな、と思った。

 

 奥沢だったかな、東急沿線のどっかの駅にあった小さなプログラミングの会社で、会社といっても、六畳くらいのスペースで、社長とぼくとアルバイトの女の子の3人しかいなかった。社長が親の持ちマンションだかなんだかの一階に部屋を作ってもらってやってたのだ。

 

 ぼくは、ミュージシャンで食えなくて、新聞配達とかウェイターもいやになってたから、なにか手に職をつけなきゃと思って、まっさきに思いついたのが、「キーボーディストなんだから、PCのキーボードも打つのが得意なのでは?(指先が器用だから)」というアホな思いつきだった。それだけの理由でコンピューターをやろうと思って、バイト雑誌で飛び込みでみつけてその会社でバイトをはじめたのだった。

 そこに入って、なにも知らないところから、PCを磨いたり、インストールをひたすらやったり、近所の競馬好きのおじさんの家にオンラインで競馬の馬券を買うソフト(だったかな)を説明しにいったり、PCまわりの仕事をいろいろしながら、少しずつプログラムをおぼえて、そのうち寝袋持って泊まり込んでプログラムを書くようになった。

まだ、Windowsが出たてのころだったから、まだMS-DOSのデータベースの方がスピードがはやくて、「桐」っていうソフトでデータベースをおぼえた。そのあとExcelとかAccessのプログラムをおぼえはじめたころにやめてしまった。

   社長が打ってるプログラムをひたすら横で見てて、いろいろおぼえたのだからすごく恩があるのであったが、社長が昼間はずっと働かないでバイトの女の子(すごくかわいかったのだ、これが。)に向かってエロいことを言い続けてるのと(たぶんバイトが帰ってから夜すごい勢いで仕事してたようだが)、「俺と近所に住んでる◯◯っていう社長とは仲良くて、三国志で言うとだれとだれにあたる」とかいうおきまりの感じの自慢話が聞いてられなくて、がまんならなくなってたころに、ある日、風邪ひいてるんではやめにあがらせてもらいます、って言ったら「じゃ、死ねば?」と言われて、次の朝電話してどなってやめてしまった。

 

 すごくやんちゃで、パワフルで、たぶんボンボンで、かわいい人だったけど、

<体力とスポーツには自信があって昔はもてたっていうのをずっと自慢してるいまだ上昇志向の経営者>、、、と言う感じががまんならなくて、まったく好きになれなかった。

 

 

ただ、いまだにその社長に心から感謝していることがある。

 

 

その社長は、むかしディスコではそうとうならした口なんだ、というのが自慢で、一度ダンスクラシックのディスコにつれていかれた。ぼくも高校生からディスコが好きで、アース・ウィンド&ファイヤーとかコンファンクションとかダズバンドとか、なつかしいのばっかりかかってたから、悪い気はしなかったけど、社長がおどるのを見てたら、なんでこの音楽がこんな竹下通りの踊りみたいに、ステップをみんなで合わせるような踊りになっちゃうんだろう?とまたげんなりした。そのあと赤坂のキャバクラにも生まれてはじめて連れて行かれたけど、とっかえひっかえ横に座る女の子にビールをついだりしてたら疲れてしまった。なにもおもしろくなかった。

 

 

 しかし、そのあとに、社長が連れて行ってくれた、六本木の老舗のブラックミュージックの店で、よく外国からくる有名ミュージシャンがお忍びでライブにくるという店でのことだ。

 

 

 入り口に「ザ・ドリフターズ」と書かれていた。もしや?とおもったけど、まさかな、と思った。(お笑いの、ドリフターズじゃないですよ 笑)中にはいると、もうけっこう夜遅かったし2テーブルしか客がいなくて、片方のテーブルには地味な黒人のおじいさんたちがすわっていた。

 最初に出て来た黒人ファンクバンドの演奏がすごく新しい感じで、日本人のコーラスの女の子がひとりいて、ものすごいテクニックと安定感、ほんとにかっこよかった。でもぼくはおどらなかった。

 そのあとに、さっきテーブルに座ってたおじいさんたちがすごいきちんとした服装に白い手袋をして出て来た。げ、ほんものだ。とそのときに気づいた。ほんの数人しかいないお客さんに向けて、すばらしい笑顔で、きちんとふりを合わせて踊りながらすばらしいコーラスで演奏がはじまった。

 一曲目の演奏がはじまったとたんにぼくは気づいたら立ち上がっていた。曲はとてもとても古い、決して目新しい曲ではないのに、おどらずにはいられなかった。

 「ダンス・ウィズ・ミー」、「ラストダンスは私に」「渚のボードウォーク」などつぎつぎと演奏をしてくれた。

 

 そのころ、ぼくはアルバイトしながら、あるドラマーとしょっちゅう練習していて、二人のそのころの会話といえば、スネアの位置(演奏するタイミングのことです)とか、ベースとキックのタイミングのずれとかそういうことだった。音楽をタイミングと「ずれ」でとらえようとしてたのだ。「位置」がメインテーマだったのだ。しかし、あの晩の演奏を見て、はっきりと、「そういうことではない」ということに気づいた。  もっとすごくシンプルなものが音楽の奥にあるのだ、ということが、いやでもそこに、目の前に歴然と存在していた。

 

 本当に夢のような時間だった。

 もうまったく社長の存在も忘れていた。

 

 終わって、すぐ話にいった。なにも持ってなかったから、その会社に入るときに西友かイトーヨーカドーかで買った安物のペロペロのワイシャツの背中にサインしてください、とたのんだ。

 メンバーの1人が、「おまえはミュージシャンか?」というので、かたことの英語で、「そうだ。キーボードだ。」と答えると、ぼくの耳元で、しずかに、でも、ゆっくりと、

<いいか、おまえが、ミュージックを続けたかったら、

おまえと共にいろ。(Stay with you) >

と言った。

Stay with you.

聞いた事の無い文章がすごく自然と胸の中に入った。

そして、うしろを向け、と言い、ぼくがうしろを向くと、その言葉を

ぼくのワイシャツの背中に書いてくれたのだ。

 

テレビの原監督のインタビューを見ながら、ながらくその言葉を忘れていたなぁ、と思った。

だいきらいだった社長、ほんとにありがとう。