あたりまえの、魔法 1

おはなし。短編。 ※あたりまえの、魔法2(エッセイなど)はこちら→http://junmusic2.hatenadiary.jp

相棒とのお別れ Triton Le  L.U.S.T.のライブのあとのちょっとつらい思い出

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ぼくはキーボーディストとしてはとても機材(キーボード)を買わない方だったのではと思う。少なくとも今までは。
特にこの10年か15年くらいはほとんど3台のメインのキーボードで仕事を回して来た。

その3台が、ほぼ時を同じくして、最近お亡くなりに(?)なった。

というか、お亡くなりになった、と判断せざるをえなくなった。

 

ずいぶん前から、調子が悪く、何度も修理に出したり、自分でネジをはずして中を空けて調整したり、いろいろしてたが、もういろんなところがガタがきて、もう無理かなぁ、と思いつつ、愛着もあるため、捨てるに捨てられず、ずっと家にただ置いてあったが、そろそろお分かれしようと決心した。


というか決心するために、この文章を書く事にした。
お葬式で読むお別れの言葉のようなものだ。

 3人も相棒が亡くなったので、順番に。

今日はまずは、Triton Leさんについて。 

 

いままで会った多くのキーボーディストの人は、まず大体車を持っている。キーボードを運ぶために。そして、車になにかあったときのための替えの(同じ機種の)キーボードを積んでいる人さえいた。
また、多くのキーボーディストの人は研究のために、もしくは、趣味で、いろいろ新しいキーボードをとっかえひっかえ試したりする。

  ぼくは、どっちもうらやましかったが、まず免許がないのと、お金がないのとで、「軽いキーボード」を長く使う、というのがキーボードを選ぶときに求められる必須条件だった。

つまり「軽くて使い回せて丈夫」というのが選ぶ第一条件。
ふつうは第一に音質や音色の好みや機能で選ぶのだが、ぼくの場合はそれももちろんあるけれど、それだけでなく、「機動性」が最重要だった。 

 

80年代以降のレゲエのピアノの裏打ちにはかかせない(と僕が思っていた)KORGのM1というキーボードの音がほしくて、それと同じ音が入っていて、それでも持てるキーボード、、と探して買ったのがこのTriton Le(トライトン・エルイー)だった。
M1自体の方がピアノの音としてはずっと重たさがあってよかったのだが、そこはがまんした。音が重いだけでなく、M1はキーボード自体もものすごく重かったからだ。とても2台は持てない。

でも、ジャマイカのキーボーディストを見て自分がどこが一番好きだったかというと、「チープな音のキーボードでもかっこよく弾いてしまう」のりのよさ、だったから、「多少、廉価版のキーボードでもよいのだ」と自分を納得させていた。
だんだんそれは、納得するだけでなく、なんとなく自分のへんなプライドというかスタイルになっていった。「安っぽいキーボードでもかっこよく弾こう!」と常に思うようになった。

Triton LE というのは、Triton(トライトン)というこれまた有名な(M1よりは時代はずっと新しい)キーボードの、いわば廉価版、ファミリー版(?)みたいなもので、Triton自体よりは軽くて安くて音数も少し少ない。

たばこで言うところの、キャスターマイルドとか、コーラでいうところの、ペプシ・ライトとか(そんなのあったけかな)、そんなようなものだ。

 だから、これを使い始めたころは、「なんでLeなんですか?」とか聞かれたりすることがあった。

たとえば、たまに大きいツアーがあって、好きなキーボードを現地レンタルできるなんてときにも、自分の持ってる使い慣れたものと同じものがよいから、楽器担当の人に「なにを用意しますか?」と聞かれて、「Triton Le 2台でお願いします」なんていうと、「え?Tritonじゃなくて、Leですか?あんまり使う人がいないのでこちらには、ないのですが、、」とか言われたりした。

あれは、廉価版でステージで使うものではないですから、、とはっきり言われたこともある。

でも、「他の人にとってチープなキーボードと見られてても、慣れてるものを使うのが自分のスタイル」ということには、勝手にプライドを持っていた(というかそう決めないとどうにもならなかった 笑)ので、「いや、絶対Triton Leでお願いします」と突っぱねて、楽器担当の人がこまったあげく、Leをその機材レンタル会社の新しい機材として買ってくれたことすらあった。

 

 実際のところ、廉価版のためかちょっと音が軽いなぁ、という音色もあったりした。そういう場合は、プログラムをいじってちょっと重さを加えたり、いろいろ工夫をしないと納得できない場合もあったがそうやって作ったいろんなパッチ(音のセットみたいなもの)がたまっていくのが楽しかった。

 

いろんな思い出がある。

そのころ僕は大体普段は、ぼくは東京に住んでるアフリカ人やジャマイカ人の人たちのバンドで飲み屋さんや、パーティーなどで演奏するのがメインの仕事で、たまにジャマイカから来たアーティストのバックをやらせてもらったりしていたが、はじめてMINMIという日本人レゲエアーティストのバックで、仕事をさせてもらったときのこと。

基本レゲエは(というか「僕が考える」レゲエは)、「自分の手で弾けないものは弾かない」というのもひとつのプライドというかポリシーのひとつと思っていたが、MINMIの曲でどうしてもこれは2本の腕では弾けない、という曲があった。
そのときまではぼくは知らなかったが、日本のポップス業界の場合はそういう場合はどうするかというと

①もうひとりキーボーディストを入れる

シーケンサー(コンピューター)を使う

のどちらかにしましょうってことになることが多いのだ。①は予算とかの問題があってその曲のためにもうひとり人員を増やすというのはなかなか難しい場合が多いので、②にしないか、という話になることが多い。(ということをぼくはそのときに始めて知ったのだ)。

 コンピューターで作ったオケを流してそれに合わせて弾くというのはその後もなんどか日本のレゲエの現場で頼まれた事がある(これを「同期」と呼ぶ)が、ぼくは基本的にあまり好きでなかった。
「同期」と「あてぶり」はやらない、というのがポリシーだった。(その後結局やってみたことがあるけど 笑)あてぶり、というのは実際は弾いてないけど、映像のために弾いてるふりをすることだ。
同期はできないことはないけれど、あまり楽しくはないし、やっぱりLive & Direct というレゲエの大事なキーワードの一つである言葉が表している、直訳すれば「生(なま)で直接!」という精神がぼくは好きだったし、そのときにもなんとかひとりで弾いてやろうと思った。

で、どうしたかというと、右手の親指でストリングスの音を弾きながら、他の指で、エレピの音を弾く、しかもエレピの音も一つの鍵盤を弾いたら和音が出るようにプロミラミングしておく、そして左手でピアノを弾く、というようなことをして解決した。

MINMIの仕事をきっかけに、しばらくそういう、「ひとりでどこまでたくさんの音を弾けるか」みたいなことをやってみていたが、(つまり打ち込みで作られた曲は重ねてある音色の数がすごく多いのだ)あるときふと、これはあれに似ている!と思った。

それはなにかというと染之助染太郎?だっけ。あの、お正月に出てくる、傘の上で升を回してごらんいれます〜みたいな芸人さん。なんかああいう、職人的な気持ちになってくる。やったーできました!みたいな(笑)そういう気持ちよさがあった。

でもキーボーディストの場合、ちょっとせつないのは、一回MINMIのライブが終わって見にいてくれていたポチくんというキーボーディストの友達に感想を聞いたとき、「あの曲は、同期つかってたでしょ?ひとりじゃ弾けないもんね」とさらっと言われた。ガーン!ひとりで弾いてたのに!と思うと同時に、「そうだよな、独りで無理して弾けたところでそれがなんなんだろう?」と考えさせられた。

 

 そしてその後、またあるとき、それに関してほんとうにショックなことがあった。ショックというか、とても胸にズガーンときたことなのだが。

 

L.U.S.T.というジャマイカのアーティスト(ルーキーD、スリーラーU、シンギングメロディー、トニー・カーティスの4人組)の日本ツアーのバックをしたときのこと。
ぼくは張り切ってたくさんの音をプログラミングして、本番もいっしょうけんめい弾いたのだが、そのライブが終わったあとのこと。
ぼくが「ふーっ、終わった、、」と思って椅子に座ったのもつかのま、あるお客さんが、たぶん日本在住のジャマイカ人の人だったのだと思う、がぼくの前に来て座った。しゃれたメガネをかけていた。友達と二人だったと思う。彼は、グラスに入ったお酒をゆっくり飲みながら、しばらくしてから、かなり上手な日本語でゆっくりとぼくに話しだした。

「きょうのライブどうだった?」

急にお客さんの方から聞かれて、ぼくはすぐ答えられずに、ちょっと間が空いた。そして、「楽しかった」というようなことをたぶん言ったのじゃないかと思う。

そしたら、彼は続けて、

「ジャマイカ行ったことある?」とぼくに聞いた。

「いや、ない」とぼくが言うと、彼は、

「ジャマイカのライブはほんとうにすごい。たぶんあなたは知らない」と言ったあとで、ゆっくりと

「悪いけれど、今日のライブは、」と言って、手のひらを下に向けて、「so,so」と言った。
言葉は「まぁまぁ」という意味だが、しぐさは、あきらかに「ぜんぜんよくなかった」という意味だった。
ぼくはギクっとした。

そして、「あなたは、たくさんの音をキーボードで弾いた」と彼は言った。

「ギターの音をキーボードで弾く。ブラスの音をキーボードで弾く。あなたたくさんの音キーボードで弾いた。でもオルガンだけでもいい音楽できる。」

「わかる?」と彼は言ってぼくの目を見た。そして、

「とにかく、今日のライブはSo,So。ごめんね。じゃあ、向こうで楽しんでくるよ。」

そんな風に彼は言って友達と二人でいなくなった。


あきらかにそれは、「期待してきたけど、残念だった。そしてそれはあなたのプレイに問題がある」というメッセージだった。 

ぼくはなんだかすごく落ち込んだ。
と同時に、なんだかそういう音色のプログラムにばかり夢中になっていた自分についてすごく考えさせられた。
考えるととてもありがたいメッセージであった。(そう思えたのはしばらくあとになってからだったけど。)

 

もちろん、仕事によっては、いろんな音を出さなくてはいけないこともある。でもそれをどう省略して、少ない音色で「いい」演奏をするか、というのも大事だな、とはっきりそのときに思った。元曲を再現することに夢中になってはいけない。
音色の数について考えるときは、今でもだいたい、そのときのメガネをかけたジャマイカ人の顔が出てくる。

もともと、レゲエは、というか音楽は、「音を出してないところ」で語るものだ、とはよく言われるじゃないか。それが真髄なんだと思う。たくさん出したからいいってもんじゃない。まだまだその域には行けていないが、そうなんだと思う。

頭の悪いぼくはやってみないといろんなことが体に沁みない。自分でほんとに自分は進みの遅い人間だな、とよく思う。そのときも、とことんたくさんの音を出すのにはまってみて(笑)結局そんなことに気づいたのだった。

 

このTriton Leには、そんなプログラムもいろいろ入っている。

今、そういうパッチを弾いてみると、すごく笑ってしまう。はしからはしまで指でなぞると、いろんな音色が出てくる。よくこんなに並べたなと思う。
なんだか昔のアルバムを見ているようだ。

 そして、キーボードの上には、ところせましと、「あんちょこ」つまり試験でのカンニングペーパーみたいな紙が貼られている。本番直前にどうしても不安なことをメモしてはったり、曲順の紙をはったりしてたものが2重3重に重なっている。

そして、いろんなところでもらったステッカー。

 

本当に長い間お疲れ様でした。そしてさようなら。

 

また、今度、あと2人のお亡くなりになった相棒、ノードエレクトロ(初代)、と、Yamaha CS2xさんについても書きたいと思う。

 

国会議事堂のプール。三谷のお刺身とインド。

 20代の半ばのころのどうでもいい「プール」の話。

 

 ぼくは、その夏、生まれてはじめてプールの監視員のバイトをした。

 

 ぼくは子供のころ、体育全般苦手だったけど、泳ぎがもっとも苦手だった。夏のプールはただただ恐怖だった。

 バタ足で1メートルも行くと立ってしまうタイプだ。水に顔をつけるだけでも鼻に水が入っていやだった。低学年のころ毎朝洗面器に顔をつける訓練をしなさいと言われていやいややった。

 でもプールの深い方はくっきりと水面の色がはっきり違って黒く見えるくらい恐ろしかった。別にほんとうに色が違うわけでもないのに。一度怖くなるとまったくだめなタイプだから、プールだけでなく、さかあがりも跳び箱もマット運動も全部苦手だったが、プールがもっとも怖かった。

 なんと小学6年生にもなって、学校のプールで溺れたことがある。。

 学校のプールはたてが25メートル。横が何メートルだったか忘れたけど、とにかく一番深いところはぼくの背では足がつかなかった。ぼくはすごく小さかった。

 ぼくはその一番深いところを通過するときに恐怖にかられてバタ足が続かなくなり、パニックになった。ほんの1メートル先のプールサイドまで行けないのだ。自分がおぼれている?というのにおどろいた。6年生にもなってまさかプールでおぼれるやつがいるとは誰も思わないから、最初は誰も気づいてくれなかった。

 そのうち、体育の先生が飛び込んで助けてくれた。先生に助けられてプールサイドにあがる瞬間、ぼくはみんなにいつものように(鉄棒で、さかあがりをしようとして怖さのあまりに両手を離してしまってアゴから地面にガツンと落下したときのように)こっぴどく笑われるんじゃないか、、と思ってドキドキした。

 でも実際にプールサイドに上がったときは、特にだれもなんの反応もしなかった。

 もうみんなそんなに子供じゃなかったのか、あまりに悲惨で笑えなかったのか。

 

 ともかく、そんなぼくもどういうわけか、大人になるにつれてある程度は泳げるようになっていたけれど、特に得意ではなかった。だからまさか自分がプールの監視員をやるとは思ってなかった。

 その年の夏、そのころつきあっていた彼女(ぼくはミュージシャンを目指していて、彼女はイラストレーターを目指していた)と一緒にできるバイトはないか、とアルバイト情報誌を見ていたら、いきなり彼女が「プール監視員募集、初心者歓迎」というのを見つけたのだ。初心者でもいいというのにすごく驚いた。

 彼女と一緒にバイトができるというだけでぼくはうきうきしていた。

 

 面接に行ったらおどろいたことにすぐ採用された。おもしろいことに、ぼくらが担当することになったのは、なんと、「国会議事堂」の中にあるプールの監視員のバイトだった。

「国会議事堂」の中にプールがあるんだ、、ぼくの頭の中にはなんだかものすごいきれいなホテルのプールのような光景が浮かんだ。

 

 初日に、国会議事堂に行った。

 想像したのと違い、小学校のときのプールと同じようなプールだった。田舎の小学校に来たのかと思うような景色。やはりたてが25メートル。

 まわりに見えるのは、すごく大きいけどひと時代前のビル?という感じの建物がひとつだけ(あれは議員宿舎か何かだったのか、もう忘れた。国会議事堂自体は、プールからはまったく見えなかった)。

 ぱっと見たとき、なんでだか「社会主義の国ってこんな感じかな?」と思った。東京のど真ん中にいるとはまったく思えなかった。

 

 一年放置されたプールの水はすごく濃い緑色になっていて、プールサイドにもたくさん苔が生えていた。

 そういえば小学校のとき、夏になると、先生と一緒にプール開きの手伝いをさせられた。ま緑になったプールにぼくが溺れたときに助けてくれたその体育の先生が、(あれはプールの底にある栓を抜きに行くためだったのか理由は忘れてしまったが)さっそうと飛び込んで行く姿を急に思い出した。飛び込みの美しい姿勢。ま緑の水(ぼくにはそうとう気持ち悪く見えた)をものともせずとびこんでいくその先生の男らしい感じ。

 ぼくはその先生をいつもかっこいいなぁ、、と思って見てたのだった。

 

 プール開きの日まで、4人でひたすらプールの中とプールサイドをデッキブラシで磨いた。数日後にプール開き。それまでに間に合わせなくてはいけない。

 4人というのは、上司のおじさんが1人、ずっと監視員をしてる大学生が1人、そして彼女とぼく。

 上司のおじさんは二人。大学生も男女二人。交代でどちらかが来ていた。ぼくと彼女は毎日。

 高圧洗浄機というものもはじめて使った。どう見ても落ちないと思われたプールサイドが少しずつ白くなっていく。毎日ここからここまで、と決めて一生懸命磨いた。

 

 そして、プール開き。

 はじまってみて、ぼくがなによりびっくりしたことは、一日の利用者の少なさだった。

 昼休みの1時間の間に、泳ぎが好きな国会議員や秘書のようなひとたちが数名くる以外は、利用者がほとんどいなかった。一日平均10名というくらいの感じだったと思う。たまーに天気がよく気持ちのいい日には、たくさんの人がくることもあったが、雨の日などは一日中誰もこないこともあった。

 

 それで毎日4人分の仕事料が出てるのかと思うと、やっぱり贅沢な場所だなぁ、と思った。

 時間がいくらでもあったから、少しずつ「救助法」の基礎となる泳ぎを教わった。

 最初に教わったのは、おぼれた人を助けるための、「巻き足」というものだ。

 立ったまま両足をくるくるとかきまわすように回して、水中で浮かんでいる訓練だ。

 「巻き足が得意なおばさんは、水中で巻き足しながらお弁当たべたりできるんですよ」と大学生に言われておどろいた。

 

 ひまな日は、ほとんど一日中自分たちが泳いでいることもできた。

 日に日に、泳げる距離がだんだんとのびていった。

 「長距離泳ぐときは、ほとんど寝ながら泳いでるみたいな感じでいいんだよ」と上司のおじさんが教えてくれた。

 たしかに力をぬけばぬくほど楽におよげるのだ。

 まったく前に進もうとか考えなくても少しずつ前に勝手に進んで行く。

 小学校ではこういうことは習わなかったな、と思った。

 泳ぎが得意ではなかった自分が毎日少しずつ水になじんでいった。

 

 上司の1人は、生まれてから会ったなかでもっとも典型的な「江戸っ子」という感じの人だった。

 「浅草?あんなとこ、だいきれーだよ」とよくその人は言った。

 でも飲みに行ったりして、祭りの話になると、とろけるような顔で「祭りはえ〜ぞ〜」といつも言っていた。

 古式泳法の達人で、見た事もないような泳法をいっぱい見せてくれた。なんだか花火みたいな名前がついた泳法があって、きれいだった。

 猟銃を打つのが趣味で、おれは戦争になったら鉄砲で三谷を守るんだ、とよく言っていた。

 一度、「三谷に世界一うまい刺身の店があるからつれてってやる」と言われて連れて行ってもらったお店は、まるで誰かのうち?という感じのところだったが、そこで出て来た刺身は500円で、これでもかというばかりにどっさりいろんな刺身がもられていて、あとにも先にも人生の中で食べた刺身の中で一番うまかった。

 いったいどうやって仕入れてるんだろう?と思った。

 

 たまにそのおじさんの子どもがプールに遊びにきた。

 おじさんは、プールサイドの椅子に足をかっと組んで座りながら、

 「おい、まっつぐ行ってしだり、って行ってみろ」と自分のこどもに何度も言った。

 江戸っ子は、サ行と、タ行もしくはハ行が入れ替わるという話は聞いていたが、そのおじさんがそれを子供にふざけてしょっちゅう教育してるのがおもしろかった。

 男の子は元気なでかい声で「まっつぐいってシダリ!!」と叫んでいた。

 おじさんは得意そうにいつもニコニコしていた。

 

 もうひとりの上司はなんだかおっとりした感じのおじさんだったが、ある雨の日にその人にインドの話をされた。

 プールサイドの小さい小屋のようなところに、3人で(その日は、大学生はおやすみだった)並んで座っていた。ぼくと彼女とおじさん。

 ぼくは、小さいラジカセで自分のつくったベスト曲集のカセットをいつもかけていたのをおぼえている。キャロルキングとかプリンスとかなんだかそのころ好きだったものがランダムにいろいろかかっていた。

 プールサイドにふりそそぐ雨を3人で横にならんでじっとみつめていると、そのおじさんが、急に

 「インドに行ったことある?」と言った。

 ふだんもの静かな感じのそのおじさんが急にそんなことを言うのでぼくはちょっとおどろいた。

 「ないです。」というと、

 「君は行ってみたらいいと思うよ」

 と言われた。

 ??

 「人生観が変わるよ」

 「そうなんですか?」

 プールの向こうに見えるかなり古い感じのコンクリートの建物と、プールに落ちる雨をなんとなく見つめながら、インドのことを考えた。

 「気づくと足下に死んでる子供がいて、ふんづけちゃいそうになったりするんだよ。」

 とその人は言った。

 それ以上は特に何も言わなかった。

 

 大学生の監視員二人の男女にも、ぼくと彼女はすごく好感をもっていた。

 身の回りにまったくいないタイプだったのだ。

 びっくりするくらい肌を露出する競泳用の水着をいつもピタっと身につけ、二人ともものすごくスタイルがよかった。さわやかで明るく、同時にいつも自然体だった。

 ぼくも彼女も背が低いほうだったが、二人は背が高くすらっとしていていて、美男美女だった。なんだかドラマに出てきそう、、と思った。

 どう考えてもすごくモテるだろうなぁ、、、などとぼくはすぐうらやましく思っていたが、本人たちはまったくそんな感じの意識もないようだった。

 「ほんとうにさわやかだよね、、」と彼女とよく話した。

 

 変な話だけど、「毎日日常的に水の中にいる」、っていうこと、をいままで自分はまったく知らなかったのだな、と思った。

 それは人をどこかでやっぱり変えるのだなぁ、と思った。

 水、かぁ、、

 と思った。

 

 ぼくも彼女も日に日に体が丈夫になっていった。

 バスに乗るときとかに、少しぐらい揺れても、ぜんぜんらくちんになっていってるのが自分でもわかった。

 

 特に、彼女はそれまで小さいころに自転車に乗ってるときにうしろから車に追突されてひざをケガしたことがあって、疲れてくるといつもひざを痛がっていた。痛くなってきたときの彼女の悲しい顔はぼくにとって日常のひとこまみたいになってた。ひざの「お皿」の骨が変な具合にくっついてしまってもう一生直らないのだ。

 でも、ある日彼女が「最近ぜんぜんいたくないんだよ!!」とすごく嬉しそうに言った。「巻き足がすごくいいみたいなんだ」。

 なんだかすごいまぶしいような笑顔でそう言っていた。

 

 

 夏。全部で2週間くらいのことだったんだろうか。なんだか思い出すと夢の中のできごとみたいだ。のどかな国会議事堂のプール。

 

 最後に仕事が終わる日に、全員でビヤガーデンに行った。

 江戸っ子のおじさんは始終ニコニコしてたけど、ほんとにその瞬間だけすごく真面目な顔で、

 「正直、おまえを見てるとさ、おまえがほんとに思いっきりなにをやりたいか、まったくわからねぇんだな。」

 と僕に言った。そして、

 「やりたいことをさ、もっと思いっきりやったらいいんじゃねーかな、って思っちまうんだけどなぁ、、」

 とビール片手に、ちょっと困ったような顔をした。

 インドの話をしてくれたおじさんはだまってにこにこしていた。

 なんだかそれをよく思い出す。

Musicians ギターリスト Y(その1)ほんとうのヒーローはみんなに気づかれない(どころか気持ちわるがられる)

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(東京のミュージシャンと電車についてのひとつの思い出)

 

 Yは日頃から電車に乗らない。乗らないというより乗れなかった。

「なんで乗れないの?」と聞くと、「いや~あの車内の空気はどっかおかしいだろう?」と言う。

 

 まぁ、、たしかにね。。わかるよ、、

 

 ぼくは免許を持ってなかったから東京での移動手段は電車しかなかったし、レゲエバンドで必要な2台のキーボードとキーボードスタンドを持って電車でよく移動してたから、ある意味そういうまわりの空気とか目とかにはすでに慣れていた。

 慣れなきゃ、ラッシュ時のパンパンにふくれあがった都内の電車にそんな大荷物を持ってのりこむことなんかできないし、露骨にいやな顔をされるのはもちろん、文句を言われることだってある。自然と面の皮も厚くなっていた。

 どうやってキーボードを両肩に担いであまり迷惑にならずに電車内に乗り込むかとか、すごいやな顔してるサラリーマンとびた~っと車内で体ごとくっついてるときは「♪ラッシュをつくってるのは、あなたでもぼくでもな~い」というような自作の歌を心の中で歌い続けてると多少気が楽になるとか、いろんなことをいやでもおぼえた。

 ふだんはYより引っ込みじあんで気も弱い自分が、電車内の場の空気みたいなものに対しては「まちがってるのは俺じゃない」というふてぶてしい態度になってしまっていた。まるでやせのつっぱりみたいに。

 でも、ほんとはストレスになってたんだろう。ずいぶんあとになって40才近くになったころから、気づくと途中で駅のホームに「降りてしまっている」ということがおこるようになった。ある程度以上混んで来ると、気づくと耐えられなくて電車をおりてしまっている。「あぁ東京にいられるのももう長くないかもな」と思ったのはそのころだ。

 

 自分のことばかり書いてしまった。

 

 Yの話。

 とにかく、Yは電車にのれなかった。

 

 で、ある日どこかのスタジオに行かなければならない日に、Yの車が故障していたかなんかの理由で、一緒に電車にのって行く事になったときがあった。

 

 駅につくと、Yは、「おい、切符はどこでどうやって買うのだ?」と言った。

 切符を買ってかれに一枚渡した。

 

 二人で、車内にのりこむ。

 席がうまっていたのでぼくらは立って話をしていた。

 

 しばらくしたら、となりの車両から1人おじさんが歩いて来た。

 なにかぶつぶつ言っている。

 「◯◯年の甲子園のときのピッチャーは◯◯さんだったけどよ。あんときの審判が悪いんだよ!みんなわかってるのか!」とか叫びながら、よろよろと歩いてくる。

 ずーっとひとりでぶつぶつしゃべっている。

 

 ちょっと緊張した車内の空気。

 

 おじさんはやってくると、なんと、びちっとつまってる座席の人と人の間に、ぶつぶついいながら、むりやりこじあけて座ろうとしはじめる。

 (うわー、やばいなぁ、、大丈夫かなぁ。。)

 すると、むりやり自分のとなりをこじあけようとされたサラリーマンが思わず立ち上がって、「失礼だぞ!」と叫んで、その「へんな」おじさんのことをなぐってしまった。

 なぐられてたおれながらもおじさんはまたいろんなことを叫びはじめ、不屈に立ち上がって向かっていこうとしている。

 一触即発の雰囲気が車内に立ちこめる。

 

 Yはこういうのがいやだからこそ、電車に乗らなかったのだろうに、、

 

 その瞬間、

 Yが、ふら〜っという感じで、そのおじさんに近づいたかと思うと、

「でへへへ、え?なんなの?おじさんさ〜、わかるよわかるよ、ぐふふふふ。その甲子園?どんな話なのよ〜、聞かせてよ〜」

 という感じで話しかけると(そのときにYがほんとうに何を言っていたのかはもう覚えてないけどそんなニュアンスだった)おじさんと仲良さそうに肩を組むと、ぼくの方に「おまえ先にスタジオに行っとけ」みたいな目配せをしたと思うと、ちょうど着いてドアが開いた途中駅に、二人で降りて行ってしまった。

 おじさんも煙にまかれたようにつられてYと一緒に降りて行く。

 

 確実に彼は、その車内の一触即発の危険な場面をものすごく平和的な解決法で救ったヒーローなのだった。

 ぼくは心の底からあらためて彼を尊敬した。

 すごいわ、やっぱ!

 演奏してるときの彼をいつも尊敬してたぼくにとっては、そうか!やっぱりという感じの感動があった。

 

 ぼくはなんだか自分のことでもないのに鼻高々に車内を見回してみた。

 そしたら、ほぼ車内の人全員が、一緒に肩を組んで歩いて行く二人の後ろ姿を、さっきまでへんなおじさんを見てた目つきよりいっそういぶかしげな目つきで見つめていた。

 

 あきらかにYは、へんなおじさんをこえるへんな人としてみんなに見つめられいた。

 

 ありゃ!!そうなの??

 

 そのとき、ぼくは思ったのだった。

 ほんとうのヒーローはみんなに気づかれない(どころか気持ちわるがられる)のだなぁ、、

 

 そうして、ぼくは彼に惚れ込んでしまったのである。

 (つづく、、たぶん)

 

 

 

 

 

巨人を見て思い出した、きらいだった社長と、ほんものの(アメリカの)ドリフターズにもらったサイン<Stay with you>

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今日は、ひろばで、ゲゲゲの鬼太郎祭の演奏をした。目玉おやじの顔をつけて。

一曲目を演奏し終わったら、あまりに酸欠で、苦しくてかぶりものをはずしてしまった。

ライブに関してはまた別に書こうと思う。

帰りに中華屋さんでめしを食べてたら日本シリーズをやっていて見てるまに巨人が優勝した。

 

急に、20代のころバイトしてたプログラマーの会社の、社長のことを思い出した。

なんでかというと、その人が、ものすごい巨人ファンだったからだ。

入ってそうそう、おまえはどこファンか?と聞くから、「ほとんど野球は知らないけど、ヤクルトかな、と思います。」と言うと、

「あんな、暗いチームのどこがいいんだよ!」となげすてるように言っていた。

そんな言い方するなら聞かなきゃいいのに、と思った。同時に、巨人が明るく見える人もいるんだな、と思った。

 

 奥沢だったかな、東急沿線のどっかの駅にあった小さなプログラミングの会社で、会社といっても、六畳くらいのスペースで、社長とぼくとアルバイトの女の子の3人しかいなかった。社長が親の持ちマンションだかなんだかの一階に部屋を作ってもらってやってたのだ。

 

 ぼくは、ミュージシャンで食えなくて、新聞配達とかウェイターもいやになってたから、なにか手に職をつけなきゃと思って、まっさきに思いついたのが、「キーボーディストなんだから、PCのキーボードも打つのが得意なのでは?(指先が器用だから)」というアホな思いつきだった。それだけの理由でコンピューターをやろうと思って、バイト雑誌で飛び込みでみつけてその会社でバイトをはじめたのだった。

 そこに入って、なにも知らないところから、PCを磨いたり、インストールをひたすらやったり、近所の競馬好きのおじさんの家にオンラインで競馬の馬券を買うソフト(だったかな)を説明しにいったり、PCまわりの仕事をいろいろしながら、少しずつプログラムをおぼえて、そのうち寝袋持って泊まり込んでプログラムを書くようになった。

まだ、Windowsが出たてのころだったから、まだMS-DOSのデータベースの方がスピードがはやくて、「桐」っていうソフトでデータベースをおぼえた。そのあとExcelとかAccessのプログラムをおぼえはじめたころにやめてしまった。

   社長が打ってるプログラムをひたすら横で見てて、いろいろおぼえたのだからすごく恩があるのであったが、社長が昼間はずっと働かないでバイトの女の子(すごくかわいかったのだ、これが。)に向かってエロいことを言い続けてるのと(たぶんバイトが帰ってから夜すごい勢いで仕事してたようだが)、「俺と近所に住んでる◯◯っていう社長とは仲良くて、三国志で言うとだれとだれにあたる」とかいうおきまりの感じの自慢話が聞いてられなくて、がまんならなくなってたころに、ある日、風邪ひいてるんではやめにあがらせてもらいます、って言ったら「じゃ、死ねば?」と言われて、次の朝電話してどなってやめてしまった。

 

 すごくやんちゃで、パワフルで、たぶんボンボンで、かわいい人だったけど、

<体力とスポーツには自信があって昔はもてたっていうのをずっと自慢してるいまだ上昇志向の経営者>、、、と言う感じががまんならなくて、まったく好きになれなかった。

 

 

ただ、いまだにその社長に心から感謝していることがある。

 

 

その社長は、むかしディスコではそうとうならした口なんだ、というのが自慢で、一度ダンスクラシックのディスコにつれていかれた。ぼくも高校生からディスコが好きで、アース・ウィンド&ファイヤーとかコンファンクションとかダズバンドとか、なつかしいのばっかりかかってたから、悪い気はしなかったけど、社長がおどるのを見てたら、なんでこの音楽がこんな竹下通りの踊りみたいに、ステップをみんなで合わせるような踊りになっちゃうんだろう?とまたげんなりした。そのあと赤坂のキャバクラにも生まれてはじめて連れて行かれたけど、とっかえひっかえ横に座る女の子にビールをついだりしてたら疲れてしまった。なにもおもしろくなかった。

 

 

 しかし、そのあとに、社長が連れて行ってくれた、六本木の老舗のブラックミュージックの店で、よく外国からくる有名ミュージシャンがお忍びでライブにくるという店でのことだ。

 

 

 入り口に「ザ・ドリフターズ」と書かれていた。もしや?とおもったけど、まさかな、と思った。(お笑いの、ドリフターズじゃないですよ 笑)中にはいると、もうけっこう夜遅かったし2テーブルしか客がいなくて、片方のテーブルには地味な黒人のおじいさんたちがすわっていた。

 最初に出て来た黒人ファンクバンドの演奏がすごく新しい感じで、日本人のコーラスの女の子がひとりいて、ものすごいテクニックと安定感、ほんとにかっこよかった。でもぼくはおどらなかった。

 そのあとに、さっきテーブルに座ってたおじいさんたちがすごいきちんとした服装に白い手袋をして出て来た。げ、ほんものだ。とそのときに気づいた。ほんの数人しかいないお客さんに向けて、すばらしい笑顔で、きちんとふりを合わせて踊りながらすばらしいコーラスで演奏がはじまった。

 一曲目の演奏がはじまったとたんにぼくは気づいたら立ち上がっていた。曲はとてもとても古い、決して目新しい曲ではないのに、おどらずにはいられなかった。

 「ダンス・ウィズ・ミー」、「ラストダンスは私に」「渚のボードウォーク」などつぎつぎと演奏をしてくれた。

 

 そのころ、ぼくはアルバイトしながら、あるドラマーとしょっちゅう練習していて、二人のそのころの会話といえば、スネアの位置(演奏するタイミングのことです)とか、ベースとキックのタイミングのずれとかそういうことだった。音楽をタイミングと「ずれ」でとらえようとしてたのだ。「位置」がメインテーマだったのだ。しかし、あの晩の演奏を見て、はっきりと、「そういうことではない」ということに気づいた。  もっとすごくシンプルなものが音楽の奥にあるのだ、ということが、いやでもそこに、目の前に歴然と存在していた。

 

 本当に夢のような時間だった。

 もうまったく社長の存在も忘れていた。

 

 終わって、すぐ話にいった。なにも持ってなかったから、その会社に入るときに西友かイトーヨーカドーかで買った安物のペロペロのワイシャツの背中にサインしてください、とたのんだ。

 メンバーの1人が、「おまえはミュージシャンか?」というので、かたことの英語で、「そうだ。キーボードだ。」と答えると、ぼくの耳元で、しずかに、でも、ゆっくりと、

<いいか、おまえが、ミュージックを続けたかったら、

おまえと共にいろ。(Stay with you) >

と言った。

Stay with you.

聞いた事の無い文章がすごく自然と胸の中に入った。

そして、うしろを向け、と言い、ぼくがうしろを向くと、その言葉を

ぼくのワイシャツの背中に書いてくれたのだ。

 

テレビの原監督のインタビューを見ながら、ながらくその言葉を忘れていたなぁ、と思った。

だいきらいだった社長、ほんとにありがとう。

ほんとにおもしろいのは 花いちもんめ 遊び人になるんですか?

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ただあそんでるだけじゃだめだ、って考える人がいる。

もしくは、誰しもそう考える「とき」がある。

 

小学校のときの思い出。

いや、あれは中学だな、、

中学校の1年生の終業式のあとだ。

ぼくは何人かの友達と一緒に教室で、花いちもんめをして遊んでいた。その中に1人、ぼくが好きな女の子がいたからぼくはすごくうれしかった。

もううれしくてたまらなかった(笑)。

中学校にもなって、花いちもんめ、をするのがまたなんとも楽しくてずっと遊んでいた。

 

そしたら、そのときの担任の先生がきて、

おまえら、何時だと思ってんだ!ならべ!!ってな具合に並ばされておこられた。

そのときの、先生のセリフが、次のようなものだった。

「鈴木、おまえは将来何になるんですか?遊び人ですか?中学生にもなって、遊んでるだけなんですか?」

そのときの先生の目の見開き具合とか、すごい怖い顔を今でも思い出せる。

 

いま、あの先生はどうしてるんだろう?

羽富先生っていう名前だったかなぁ、元気かな。